■法相宗の大本山として知られる興福寺
■法相宗の大本山である興福寺。
その前身である「山階寺(やましなでら)」は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても 興福寺の別称として使われています。
そして、壬申の乱(672)の後、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移され、その地名を取って「厩坂寺(うまやさかでら)」と名付けられます。
さらに、和銅3年(710)、平城遷都の際、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。
その後は、天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治政府による神仏分離令や社寺領上知令に伴う廃仏毀釈などにより興福寺は苦境に立たされましたが、寺僧や有縁の人々の努力で復興が進展し、新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。
■平成22年(2010)興福寺は創建1300年を迎えました。
武士が主役におどりでた中世に春日社興福寺として大和国を配下に治めました。聖・俗両界に絶大な権力をふるいました。生み出された数々の独創文化は多方面に渡ります。仏教心理学や能・狂言などの学術や芸能。さらには運慶に始まる慶派彫刻などの芸術分野。
また、豆腐や味噌や清酒などの食文化。哲学に始まり食に到るまで、それらは現在の私たちの身近な伝統文化として息づいています。日本文化史にキラメく足跡を残してきた興福寺ですが、何度かの火災にみまわれ創建当初のお堂はすでになく、伽藍で残る最古の建物は鎌倉時代に建てられた北円堂です。
しかし、1300年を迎えるに当たって興福寺は新たに生まれ変わります。興福寺の中心にあったお堂・中金堂(ちゅうこんどう)が天平の時代の姿で現在によみがえりました。立柱(りっちゅう)の儀式が平成22年(2010)10月16日に行われ、平成30年(2018)に再建落慶し、天平時代の姿でよみがえりました。中金堂の復元後も、「天平の文化空間の再構成」を合言葉に、興福寺は境内整備事業を進めてまいります。
天平時代と言えば、興福寺の阿修羅がその時代に造られています。阿修羅はその後の日本を見て来た生き証人です。皆様におかれましては是非ご来寺いただき阿修羅とお話しされてはいかがでしょう。1300年の時を超えた対話の中に、お父さん、お母さん、お爺さん、お婆さん、そして日本の国造りを始めた私たちの先祖の声が聞こえてくるかもしれません。
興福寺について詳細はこちら
https://www.kohfukuji.com/about/
法相宗大本山 興福寺
拝観時間9:00~17:00(入堂、16:45まで)
【電話受付 9:00~17:00まで】
▶本坊寺務所 0742-22-7755
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